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写真待ち 09(候補:赤いテレビ・要確認)

言葉がわからないうちは、世界が静かだった

近所のバルのカウンターで、昼前にコルタードを飲んでいた。

壁の上のほうにテレビがあって、いつものようにニュースが流れている。

音量は小さい。

誰も見ていない。

店主はグラスを拭いていて、隣のおじいさんは新聞を広げている。

その音の中から、ひとつの単語が耳に引っかかった。

muertos。

死者。

カップを持つ手が少し止まった。

画面を見上げると、どこかの道路でひっくり返った車が映っていて、テロップに数字が出ていた。

何人亡くなったのか、正確にはわからない。

でも、誰かが死んだということだけは、はっきり届いた。

届いてしまった、と思った。

スペインに来たばかりの頃、このテレビはただの音だった。

アナウンサーの抑揚、BGM、ときどき挟まる中継の雑音。

全部がひとつながりの音楽みたいに流れていって、意味は一滴も入ってこなかった。

燃えている建物や、泥水に沈んだ車が映っても、音のない映画のワンシーンのようで、僕の一日とはつながらなかった。

あの頃、僕はよく「ニュースを見なくなった」と言っていた。

日本にいた頃は、朝起きたらまずテレビをつけていた。

顔を洗いながら事件を聞き、着替えながら事故を聞き、家を出る前に芸能人の誰かが何かをした話を聞く。

夕方帰ってきてテレビをつければ、また同じ話が別の角度で流れている。

見たからといって何かが変わるわけでもないのに、気分だけはちゃんと持っていかれていた。

それがスペインに来てから、すっと消えた。

朝が静かになった。

頭の中の雑音が減った。

自分でも驚くくらい、機嫌よく一日を始められるようになった。

僕はそれを、自分で選んだことだと思っていた。

情報を断捨離して、ノイズを減らして、心の平穏を手に入れた。

少し得意げに、そんなふうに考えていた。

一時帰国したときのことを思い出す。

実家でも、ホテルでも、空港でも、テレビがついていた。

そして日本語は、容赦なく入ってきた。

聞こうとしていないのに、意味が勝手に頭に入ってくる。

事件の容疑者の年齢、どこかの県の大雨、誰かの不倫。

耳を閉じる方法がない。

スペイン語なら音楽のまま流せたものが、日本語だと一語残らず刺さってくる。

母語には、蓋がない。

そのとき初めてそう思った。

そして気づいた。

スペインで静かだったのは、僕が意志の力でニュースを断ったからではなかった。

ただ、言葉がわからなかっただけだった。

僕の平穏は、努力の成果ではなく、無知の副産物だった。

少しがっかりした。

いま、スペイン語は入ってくるようになっている。

翻訳アプリなしで半分くらい読める。

役所の手紙の、どこが大事なのか見当がつく。

バルで隣の人が話していることが、ところどころわかる。

それはうれしい。

この国で暮らしている実感が、やっと手に入り始めた気がする。

でも同じだけ、あのテレビも意味を持ち始めた。

muertos。heridos。incendio。inundación。

そして、わかるようになって初めて気づいたことがある。

スペインのニュースも、日本のニュースと同じことを言っている。

どこかで事故があって、誰かが亡くなった。

どこかで火事があった。

大雨で川があふれた。

政治家が何かを失言して、サッカー選手が誰かと別れた。

言葉が違うだけで、中身はほとんど変わらない。

日本を離れれば、あの重たい空気からも離れられると思っていた。

でも、重たかったのは日本ではなかった。

ニュースという形そのものだった。

国を変えても、言葉を変えても、テレビをつければ同じものが流れてくる。

だから、僕はやっぱり見ない。

言葉がわからなかった頃の静けさは、たしかに無知がくれたものだった。

でもいまは、わかった上で見ないことを選んでいる。

同じ静けさでも、手触りが少し違う。

見なくて困ったことは、ほとんどない。

本当に大事なことは、ちゃんと人が教えてくれる。

送り迎えの立ち話で、バルのカウンターで、夕食のテーブルで。

人の口を通って届く話には、顔と温度がある。

何を心配すればいいのか、どれくらい心配すればいいのかも、一緒に届く。

テレビの画面から流れ込んでくるものには、それがない。

ただ不安の量だけが、毎日同じ時間に注がれる。

日本にいた頃の僕は、それを毎朝浴びていた。

浴びないと落ち着かなかった。

いま思えば、知るべきことを知りたかったのではなく、何かを見ていないと不安だっただけなのかもしれない。

バルのテレビは、もう次の話題に移っていた。

店主が画面を見上げて、何か短くつぶやいて首を振った。

その言葉は、半分だけわかった。

残りの半分を、僕は聞き返さなかった。

コルタードを飲み干して、店を出た。

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