何にも使わない時間を、一日のどこに持っていますか
九月も終わりに近づくと、うちのテラスではバーベキューをはじめる。
夏のあいだは暑すぎて、火の前に立つ気にならない。
日差しが少しやわらいだ今ごろが、ちょうどいい。
ここ最近は、それを朝にもやっている。
肉は焼かない。
コーヒーを淹れるためだ。
台所に行けば電気ケトルがある。
スイッチを押せば、数分でお湯が沸く。
それをわざわざテラスに出て、一人で炭に火をつけて、火が落ち着くのを待ってから、やかんを載せる。
お湯が沸くまで、ケトルの何倍もかかる。
効率で言えば、まったく意味がない。
火は、急かすと消える。
早く燃やそうとして炭を詰めすぎると、空気が通らなくなって煙だけが出る。
弱いうちにあおぎすぎても、火は逃げていく。
結局、少し離れて、ちょうどいい間隔で様子を見るしかない。
これが、やってみると案外むずかしい。
火の前にいるあいだは、スマホが見られない。
見てもいいのだけど、見ているうちに火が落ちる。
一度、通知を確認しているあいだに、せっかくついた火が白くなりかけていたことがあった。
それからは、火をつけるときはスマホを部屋に置いてくる。
こっちが目を離したかどうかを、火はちゃんと知っている。
日本から戻ってくるたびに思うのだけど、こっちにいると頭の回転がゆっくりになる。
雲が流れていくのを、しばらく見ている。
海沿いを歩いて、何も考えずに帰ってくる日もある。
昼にはテラスで日に当たりながら、ビールを開ける。
特別なことをしているわけではないのに、心のほうに時間が空く。
瞑想と呼べるほどのことはしていない。
座って目を閉じるわけでも、呼吸を数えるわけでもない。
でも、火を見ている十数分のあいだ、頭の中で言葉がほとんど動いていない。
あれを瞑想と呼ぶなら、僕は毎朝やっていることになる。
お湯はケトルで沸かす。
浮いた時間で、メールを一本返す。
東京にいた頃は、それが正解だった。
そうやって一日を詰めていくのが、仕事のできる人間のやり方だと信じていた。
今でも、その考えを全部捨てたわけではない。
仕事では、早く済むほうを選ぶ。
毎日なにかしら発信しているし、noteも書いている。
Xには一日に何度も投稿する。
手を動かしていない日は、ほとんどない。
だから、なのだと思う。
発信を続けていると、目に入るものが全部、材料に見えてくる。
きれいな空を見れば、どこかに載せられないかと考える。
面白い会話を聞けば、どう書き出すかを考えている。
自分の一日が、いつのまにか誰かに見せるための下書きになっていく。
それが悪いとは思っていない。
ただ、それだけで一日が埋まると、自分が何を感じたのかが、あとから思い出せなくなる。
感じるより先に、言葉にしてしまうから。
火の前では、それが止まる。
炭の端が赤くなって、少しずつ内側へ広がっていく。
パチッと小さく音がして、細い煙が一本、上がっていく。
それを見ているとき、僕はそれを何かに使おうとしていない。
こうして書いている時点で、結局は材料にしているじゃないかと言われたら、その通りだ。
少なくとも火を見ているあいだは、書くことを考えていなかったと思う。
自分がどうあるべきか、みたいなことは、机の前で考えてもなかなか答えが出ない。
考えれば考えるほど、それらしい言葉だけが増えていく。
火の前でぼんやりしているときのほうが、自分がどっちへ行きたいのかが、なんとなく見えてくる。
見えた気がするだけで、はっきりした答えが出たことは一度もない。
お湯が沸いた。
やかんを下ろして、コーヒーを淹れる。
味は、たぶんケトルで沸かしたのと大して変わらない。
少しだけ煙の匂いがする気もするけど、気のせいかもしれない。
飲み終わっても、火はまだ残っている。
焼くものは何もない。
それでも炭をひとつ足して、もう少し座っていることにした。