やりたいことが見つからない君へ、ある写真家の話
生き方の話をしよう。
夜のバルで隣になった男が、写真家だと言った。
スマホを出して、自分の撮った写真を見せてくれた。
カメラの話を始めると止まらない。
レンズのこと、フィルムのこと、光のこと。
楽しそうだった。
それを見ながら、僕は口を滑らせた。
食っていけるの?
と聞いてしまった。
それで生活できてるのか、という質問だ。
人の人生に土足で入る種類の問いだった。
言った直後に、しまったと思った。
彼は怒らなかった。
食えないよ、と笑った。
そのあとに続いた言葉を、僕はまだ覚えている。
でも、俺以外にこの写真が撮れるか?
おまえに撮れるのか?
そう言って、またスマホの画面をこちらに向けた。
反論できなかった。
撮れない。僕には撮れない。
それは間違いなく誰にもとれない、その男だけの写真だった。
日本にいたころ、僕は人の職業を聞くのが好きだった。
正確に言うと、聞いて、頭のなかで並べるのが好きだった。
会社の名前、役職、年収の見当。
相手の話を聞きながら、勝手に順番をつけていた。
悪意はなかった。
ただ、そういう物差しを持って生きていた。
自分にも同じ物差しを当てていたから、余計に苦しかった。
これは本当にやりたい仕事なのか。
もっと向いている何かがあるんじゃないか。
こんなはずじゃない。
自分にはもっと可能性があるはずだ。
そう思っては、また会社に行った。
こっちに来て驚いたのは、みんなが自分の仕事を語るときの顔だった。
靴を作っている人。
タバコ屋。
服の縫製をしている人。
建築土木。整備士。写真家。音楽をやっている人。
誰も、自分の仕事を小さく言わない。
そして誰も、他人の仕事を下に見ない。
パーティーで職業を聞いても、返ってくるのは肩書きではなく、中身の話だ。何を作っているか、どこが難しいか、どこが面白いか。
順番をつけるための情報が出てこない。
最初は物足りなかった。
物差しが当てられないから、相手をどう扱えばいいのか分からなかった。
いま思えば、物差しを持っていたのは僕だけだった。
写真家の話には続きがあった。
最初は普通に働いていたらしい。
会社に勤めて、朝に出て、夜に帰る生活。
続かなかったと言っていた。
ある日、ふらっと美術館に入った。
そこで撮った一枚に、自分でやられたそうだ。
そこから急に決まった。
写真家になる、と。
それで暮らしが楽になったわけではない。
結婚式も撮る。
頼まれれば何でも撮る。
時々売れる。
金持ちにはなっていない。
こいつと生きていきたいんだよね、とカメラを持ち上げて言った。
その言い方が忘れられない。
仕事を選んだ、というより、連れ添う相手を決めた、という言い方だった。
そして名刺の代わりに電話番号を渡してきた。
何かあったら言えよ、と。
かっこよかった。
その後、彼は店を始めた。
古いカメラを並べた店だ。
写真家でありながら、カメラ屋になった。
写真を撮る人が、写真を撮る道具を売る側にも回った。
順番が逆な気もするし、まっすぐな気もする。
その店に行った。
棚に古い機械がずらりと並んでいて、どれも触ると重かった。
これはもう仕事の話ではない。
何と一緒に生きるか、の話だ。
自分探しという言葉が、僕はずっと苦手だった。
探すという動詞が、どこかに正解が隠れていて、見つけられない自分が悪い、という響きを持っているからだ。
でも実際はそうじゃないと思う。
向いていないと思ったものが、後から向いていたりする。
向いていると思ったものが、やってみたら全然だったりする。
やらないと分からない。だから経験の数だけが効いてくる。
僕もずいぶん遠回りをした。いろいろやった。
どれも無駄ではなかったけれど、どれが効くかは事前には分からなかった。
いい時もあった。悪い時もあった。
悪い時のほうがよく覚えている。
たぶんそれが普通で、それが仕事なんだと思う。
そして仮に満たされたとしても、人はまた、そこに無いものを探し始める。
だから、そんなに深く考えなくていいんじゃないか。
これは投げやりではなくて、順番の話だ。
考えて答えを出してから動くのではなく、動いた分だけ答えが近づいてくる。
趣味でもいい。
副業でもいい。
向いてなさそうなことでもいい。
手を出した数が、あとで自分の形になる。
若くても、年をとっても、そこは変わらない気がする。
おととい、またその店に行った。
作品を見に行ったわけじゃない。
ビザの更新に使う証明写真を撮ってもらうためだ。
棚には古いカメラがずらりと並んでいて、どれも触ると重かった。
その奥の白い壁の前に、僕は座らされた。
あれだけの写真を撮る男が、外国人の証明写真を撮っている。
そして僕は、この国に居続けるための一枚のために、その前に座っている。
食っていけるのかと聞いた男に、僕はこの国で食っていくために自分の顔を撮ってもらっていた。
背筋を伸ばして、正面を向いた。
役所に出す写真だから、笑ってはいけない。
シャッターを切る前に、彼が言った。
「一杯飲むか?」