あなたが気にしているその視線は、実際に誰かのものですか
昨日、日本からスペインに戻ってきた。
荷物を置いて、テラスに出て、ビールを開けた。
午前11時だった。
隣の家のテラスでも、年配の夫婦がのんびり飲んでいた。
通りの向こうでも誰かが座っている。
聞こえてくるのは鳥の声だけだ。
数分してから、肩が下がっているのに気づいた。
日本にいるあいだ、僕はずっと少し力が入っていた。
電車では静かにしていた。
子どもが声を出すと、周りにうるさいと思われていないかを確認した。
飲食店に入れば、自分の振る舞いがその場に合っているかを気にしていた。
誰かに怒られたわけではない。
実際に何か言われた場面は一つもない。
それでも、常に薄く緊張していた。
戻ってきて、その緊張が消えた。
それで肩が下がった。
ここで正直に書いておくと、日本のほうが優れているものはたくさんある。
まず、ご飯がうまい。
これは比較にならない。
電車は時間通りに来るし、病院も役所もちゃんと動く。
頼んだものは頼んだ通りに届く。
当たり前なんだけどね(笑)
暮らしの精度という意味では、日本のほうが上だ。
滞在中、何度もそう思った。
なのに、こっちに戻ってほっとした。
質が高いほうを選ばずに、肌が合うほうを選んでいる。
この矛盾が、自分でも長いあいだよく分からなかった。
日本にいると、こうでなければならない、という感じが出てくる。
何がと聞かれると、うまく答えられない。
誰かに指示されているわけではないから。
ただ、自分がこうであるべきだという形が、いつのまにか立ち上がっている。
その形に合わせて座り方や声の大きさを調整する。
無意識にやっているから、疲れていることにも気づかない。
たぶん、締めつけているのは他人ではない。
自分の中にいる「そうであるべき自分」だ。
なぜ日本でだけそれが出るのかを、テラスで考えていた。
日本には、僕の履歴を知っている人がいる。
どこで何をしていた人か、何年にどうなったか、それが読める場所だ。
読めるなら、その像を保たなければいけない気がしてくる。
こっちでは誰も知らない。
僕がどこの学校を出たか、
どの会社にいたか、
どういう肩書きだったか、
通りで飲んでいる人は誰も関心がない。
守るものがないから、力が入らない。
自由というより、単に他人が僕に何の期待も持っていない、という状態だ。
それがこんなに楽なのかと思った。
ただ、これはいいことだけではない。
誰も僕を知らないというのは、これまで積み上げてきたものが一切通用しないということでもある。
日本なら、少し話せば察してもらえた。
ここでは何も前提がない。
全部説明しないと伝わらない。
二十年やってきたことも、初対面の人にとっては存在しない。
その身軽さと、その虚しさは、同じ一つのことだ。
片方だけ手に入れることはできない。
移住して数年たって分かったのは、僕は虚しさのほうを引き受けて、身軽さを取ったらしいということだ。
意識して選んだわけではない。
体が勝手にそっちを選んでいた。
だから、どちらの国が良いかという話にはならない。
日本の暮らしの精度は本物だ。
スペインは適当だし、思った通りに進まない日のほうが多い。
それでも、ここでは僕の背中に誰の視線も乗っていない。
僕が欲しかったのは、たぶん、質の高い生活ではなかったんだと思う。
誰にも読まれていない状態だった。
ビールを半分飲んだころ、隣の夫婦はまだ同じ姿勢で座っていた。
午前11時から、あの調子で何時間いるつもりなんだろうと思う。
日本にいた頃の僕なら、この時間に外で飲んでいる人を見て、大丈夫なのかと考えたはずだ。
今は何も思わない。
彼らも僕を見て何も思っていない。
その、お互い何も思わない状態のことを、僕は自由と呼んでいるのかもしれない。