血はつながっているのに、言葉が一回、経由する
実家の食卓で、僕は通訳をしていた
母が息子に何か話しかけた。
息子が、僕の顔を見た。
言葉は分かる。
でも今のは何と言ったのか、という顔だった。
僕が言い直すと、彼は理解して、ちゃんと返事をした。
会話はそのまま続いた。
その場では、誰も困っていない。
母も気にしていない。
孫がスペインで育っていることは知っているから、通じない部分があるのは当然だと思っている。
困っていないのに、僕の中に何かが残った。
息子の日本語は、話せないわけではない。
家では日本語で話している。
読み書きも少しはやる。
日本に来れば、店で自分の欲しいものを言える。
ただ、家族の中で使われる日本語には届いていない。
母の話し方は速い。
主語を落とす。
言い切らずに終わる。
何十年も同じ相手に同じように話してきた人の日本語で、教科書には出てこない形をしている。
僕はそれを聞いて育ったから、聞き取れる。
息子は、聞いて育っていない。
逆のことも起きている。
彼が学校の友達と話しているのを横で聞いていても、僕には半分くらいしか分からない。
早さと、崩し方と、子ども同士だけで通じる言い方。
あの部分は、僕がこの国に来てから覚えたスペイン語の外側にある。
つまり僕と息子は、お互いに相手の得意な言葉を持っていない。
日本語では僕が上で、スペイン語では彼が上で、どちらの言語でも底までは通じ合っていない。
これは、僕が決めたことの結果だ。
移住を選んだのは僕で、彼は何も選んでいない。
生まれた場所に置かれて、そこの言葉を吸って育った。
得たものは大きいと思っている。
彼は二つの国の空気を知っているし、僕が四十を過ぎてやっている苦労を、子どものうちに済ませている。
その計算は何度もした。
足し引きすれば、はっきり足りている。
ただ、食卓の一瞬で見えたのは、その計算に入れていなかった部分だった。
祖母の言葉が、孫にそのまま届かない。あいだに僕が立って、言い直す。
血はつながっているのに、言葉が一回、経由する。
この先、母がもっと年をとる。
話し方はもっと崩れるだろう。
息子の日本語がそれに追いつく可能性は、たぶんあまり高くない。
僕がいなくなったあと、二人はどうやって話すんだろう。
そんなことを考えている僕の横で、母がまた何か言った。
息子が笑った。
今度は通じたのか、通じたふりをしたのか、僕には分からなかった。