失敗しない日は、どこにも残らない
去年の自分の線が、どこにあったか知らない
キッチンの扉枠に、鉛筆で線が引いてある。
子どもの身長を測った跡だ。
壁に背中をつけて、頭のところに定規を当てて、線を引いて日付を書く。
うちでは思い出したときにやるだけなので、間隔はばらばらだ。
先週、ひさしぶりに測った。
線は、去年の線よりだいぶ上にあった。
数センチだった。
数字にすれば小さい。
でも扉枠の上で見ると、はっきりと違う場所にある。
去年のあの高さだった人間は、もういない。
それを見ていて、静かにいやな気持ちになった。
子どもの去年は、扉枠に残っている。
僕の去年は、どこにも残っていない。
去年の8月、自分が何をしていたのか思い出そうとした。
出てこない。
忙しかったのは確かだ。
毎日何かをしていた。
でも、それを一つの線として引けるかというと、引けない。
去年の僕の高さがどこだったのか、僕は知らない。
同じ365日を使っている。
子どもはそれで数センチ伸びた。目に見える形で残った。
僕はそれで何センチ伸びたのか、答えられない。
忙しさは、目印にならない。
これがいちばん怖いことだと思った。
忙しかった日は疲れているから、何かをやった気になる。
でも疲労は成果じゃない。
同じことを速く回していても疲れる。
むしろ、慣れたことを大量にやったときのほうがよく疲れる。
去年の僕はたぶん、慣れたことを大量にやっていた。
なぜ子どもは伸びるのか。
体の話をしたいわけじゃない。
生活の中身のことだ。
子どもの一日は、できないことばかり。
読めない字を読もうとする。
届かない棚に手を伸ばす。
知らない子に話しかける。
転ぶ。
泣く。
次の日また同じところに行く。
うちの子はスペインでインターの学校に通っているので、去年言えなかったことを今年は言えるようになっている。
逆に、日本語で言いかけて詰まることも増えた。
毎日どこかで失敗して、どこかで少し前に出る。
大人の一日は、その逆だ。
僕の一日は、できることでほぼ埋まっている。
書けるものを書く。
読める言語を読む。
話せる相手と話す。
歩ける道を歩く。
効率がいいし、失敗もしない。
失敗しない日は、記録に残らない。
そういうことだったんだと思う。
時間が薄くなるのは、暇だからじゃない。
新しいことが入っていないからだ。
振り返ってみると、記憶に残っている年には、必ず何か初めてのことがある。
初めてスペインに来た年のことは、細かいところまで覚えている。
どのバルで何を頼んで通じなかったか、役所で何回並び直したか。
あの年は一日が長かった。
何をするにも段取りが分からないから、時間の進みが遅かった。
慣れた年のことは、覚えていない。
同じ365日なのに、密度がまったく違う。
子どものときの一年が長くて、大人になってから短いのは、たぶん年齢のせいじゃない。
中身の新しさの量が違うだけだ。
だとすると、時間を取り戻す方法は一つしかない。
新しいことを入れることだ。
ここまで書いて、自分に言い訳が用意されていることに気づく。
「時間がない」だ。
僕もよく使う。
実際、時間はない。
書くものがあり、家族がいて、やらなければいけない手続きが並んでいる。
新しいことに手を出す余裕はない。そう思っていた。
でも去年、子どもは同じ24時間で背が伸びた。
彼は「時間がない」と言わなかった。
時間の量は同じだった。
使い方が違っただけだ。
僕が「時間がない」と言うとき、正確には「新しいことに使う時間を、慣れたことに使っている」と言っている。
忙しさは本当だ。
ただ、その忙しさの中身を選んでいるのは僕だ。
今年、地味なことをいくつか始めた。
一つは、きのこを育てている。
オフグリッドの暮らしに興味があって、まずは食べるものを自分で作るところからやってみようと思った。
うまくいっていない。
湿度の管理が難しくて、何度か全部だめにした。
調べて、やり直して、また待つ。
もう一つは、自分の場所を作る作業をしている。
他人のプラットフォームの上でしか物を届けられない状態を、少しずつ変えようとしている。
技術のことも制度のことも分からないので、調べる時間の方が長い。
進んでいる実感はほとんどない。
どちらも、今のところ何も生んでいない。
収入にも成果にもなっていない。
でも、この数ヶ月のことは覚えている。
何をやってだめだったか、次に何を試すか、頭の中に残っている。
去年の8月は思い出せないのに、今年の6月のことは思い出せる。
新しいことをやると、時間に手触りが残る。
誤解されると困るので書いておくと、これは「挑戦しよう」という掛け声の話じゃない。
大きなことをやる必要はまったくない。
きのこを育てるくらいでいい。
読めない言語の本を1ページ読むくらいでいい。
行ったことのない通りを歩いて帰るくらいでいい。
大事なのは規模じゃなくて、失敗する余地があるかどうかだと思う。
うまくいくと分かっていることは、時間を消費するだけで、線を残さない。
扉枠の線に戻る。
あの線を見て気づいたのは、時間が減っているという事実だ。
あたりまえのことだけど、ふだんは意識しない。
子どもが数センチ伸びたということは、僕の残り時間が同じだけ減ったということだ。
同じ時計を使っているのだから当然だ。
彼が伸びていく速度が、僕の減っていく速度でもある。
去年のあの高さには、もう誰も戻れない。
彼にも戻れないし、僕にも戻れない。
彼はそれでいい。
上に向かっているから。
僕は、上に向かっているのかどうかが分からない。
それが問題だった。
その日、自分の身長も測ってみた。
中年のおじさんの身長なんて、変わるわけがない。
実際、変わっていなかった。
ばかなことをしたと思いながら、線は引かなかった。
代わりに、来年の8月に何が言えるようになっていたいかを考えた。
きのこがちゃんと採れているかもしれない。
だめかもしれない。
作っているものが形になっているかもしれない。
なっていないかもしれない。
どちらでもいい。
去年の8月のことを思い出せない自分に、来年はなっていたくない。
それだけだ。
子どもがまた壁の前に立って、「まだ伸びてる?」と聞いてくる。
伸びてるよ、と言って、鉛筆を探す。
伸びるのは君だけだ、とは言わない。
言わないけど、こちらも何か伸ばしておかないと格好がつかない、とは思っている。
時間が戻らないことは、どうしようもない。
ただ、去年の自分の線がどこにあったかを知らないまま生きるのは、たぶん時間が減ることより惜しい。