P11
誰にも会わない日の豊かさ

誰にも会わない日の豊かさ

何もない日の話。

今日、誰にも会わなかった。

朝起きて、コーヒーを淹れて、窓を開けた。

予定はない。

連絡も来ない。

どこにも行かなくていい。

東京にいた頃、こんな日が怖かった。

予定がない=価値がない。

そう感じていた。

手帳が埋まっていることが、自分の存在証明だった。

朝から会議。

昼は接待ランチ。

夜は飲み会。

「忙しい」が口癖だった。

忙しい自分は、必要とされている自分だった。

たまにぽっかり予定が空くと、落ち着かなかった。

誰かに連絡した。

用もないのにカフェに行った。

SNSを延々とスクロールした。

一人でいること、何もしないことに、耐えられなかった。

スペインに来て、最初の数ヶ月。

知り合いはほとんどいない。

仕事もまだ軌道に乗っていない。

息子を学校に送ったら、夕方まで一人だった。

何もない日が、毎日続いた。

最初は地獄だった。

誰とも話さない日が3日続いた時、自分が透明になっていくような感覚があった。

存在している実感がなかった。

でも、ある日、気づいた。

昼過ぎに、洗濯物を干していた。

シーツが風に膨らんだ。

太陽の匂いがした。

それを眺めていたら、頭の中が静かだった。

焦りがない。

比較がない。

誰かの期待もない。

頭の中から、他人がいなくなっていた。

あの瞬間、初めてわかった。

僕が東京で「忙しさ」に埋めていたのは、スケジュールじゃなかった。

自分と向き合う隙間を、埋めていたんだ。

誰にも会わない日。

最初は空っぽだと思っていた。

でも、そこには全部あった。

自分の頭で考える時間。

自分の体が何を求めているか感じる時間。

何もしないという、途方もない贅沢。

今は、予定のない日が好きだ。

朝、ゆっくり起きる。

食べたいものを、食べたい時に作る。

本を読んで、途中で寝落ちする。

散歩に出て、どこにも向かわずに帰ってくる。

何も生産していない。

何も達成していない。

でも、確かに生きている。

忙しさの中では聞こえなかった音がある。

自分の呼吸。

冷蔵庫のかすかな振動。

窓の外で誰かが笑っている声。

誰にも会わなかった日の夜。

布団に入って、今日を振り返る。

何もしなかった。

でも、不思議と満ちていた。

RELATED 暮らしの記事 →

NEWSLETTER

更新のお知らせを、メールでお届けする予定です(準備中)。